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木下恵介監督 没後10年「二十四の瞳」へのオマージュ <映像作品コンテスト>

木下恵介監督 没後10年「二十四の瞳」へのオマージュ <映像作品コンテスト> 募集について

募集内容 木下恵介監督の偉業を次代に伝えるために木下監督作品「二十四の瞳」のオマージュ作品を募集。
応募規定 ○ 木下恵介監督作品「二十四の瞳」へのオマージュ作品を募集。
○ 応募作品は、予備審査を経て2009年2月7日にアクトシティ浜松にて本選を実施します。(予備審査合格者は要出席)
○ 所定の企画書をダウンロードし、作品に添付してください。
○ 過去同種のコンテストなどで受賞した作品は応募不可となります。
○ 原作品中の映像・音源の使用は不可となります。
○ 作品の時間は2分程度とします。
○ 実写・アニメ・CG等表現方法は不問です。
○ 出品のフォーマットはMPEG2とし、DVD-Rにて送付してください。

PDFの閲覧にはAdobe Readerが必要となります。
作品の送付先はこちらをご覧ください。

企画書をダウンロード
応募締め切り 2008年11月25日[火]必着
グランプリ 1点 / 30万円
準グランプリ 2点 / 15万円
2008年11月25日[火]必着
表彰式 2009年2月7日[土]   予備審査通過者が出席し、最終審査と表彰を実施。
審査員 審査委員長 五十嵐 真 (松竹 (株) 映像本部)
審 査 員 谷川 眞美 (静岡文化芸術大学准教授)
永峯 秀紀 (静岡デザイン専門学校教諭)
原田 俊哉 (浜松ケーブルテレビ常務取締役)
鈴木 孝良 (映像ディレクター・テレビジョンアイ制作本部)
斉藤 卓 (メディアプランナー・木下恵介記念館館長)

主催・後援・お問い合わせ

主催 ・浜松市
・財団法人浜松市文化振興財団
後援 松竹株式会社 / NHK浜松支局 / 静岡新聞社・静岡放送 / 中日新聞東海本社 / 浜松ケーブルテレビ / 浜松百撰
問い合わせ先、
作品送付先
木下恵介記念館事務所
〒432-8014 静岡県浜松市中区鹿谷町11-2 TEL・FAX. / 053-471-2022 E-mail /

コンサートのお知らせ

「二十四の瞳」へのオマージュ記念コンサート 木下忠司作品集

日時 : 2009年2月7日[土]15時開演
会場 : アクトシティ浜松中ホール(静岡県浜松市)

木下忠司先生(作詩・作曲家 / 木下恵介監督実弟)をお迎えし記念のコンサートと、「二十四の瞳」へのオマージュ<映像コンテスト>の受賞式を行います。


木下恵介監督について

全監督作品

公開年 作品名 備考
1943年 花咲く港 山中貞雄賞。
生きている孫六  
1944年 歓呼の街  
陸軍  
1946年 大曾根家の朝  
わが恋せし乙女  
1947年 結婚  
不死鳥  
1948年 毎日映画コンクール監督賞。
肖像 毎日映画コンクール監督賞。
破壊 毎日映画コンクール監督賞。
1949年 お嬢さん乾杯  
新釈四谷怪談  
破れ太鼓  
1950年 婚約指環  
1951年 善魔  
カルメン故郷に帰る 日本初のカラー作品。
少年期  
海の花火  
1952年 カルメン純情す  
1953年 日本の悲劇  
1954年 女の園  
二十四の瞳 ゴールデングローブ賞外国語映画賞受章。
1955年 遠い雲  
野菊の如き君なりき  
1956年 夕やけ雲  
太陽とバラ  
1957年 喜びも悲しみも幾歳月  
風前の灯  
1958年 楢山節考 ベネチア映画祭コンペティション参加。
この天の虹  
1959年 風花  
惜春鳥  
今日もまたかくてありなん  
1960年 春の夢  
笛吹川  
1961年 永遠の人 米アカデミー賞外国語映画賞ノミネート。
1962年 今年の恋  
二人で歩いた幾春秋  
1963年 歌え若人達  
死闘の伝説  
1964年 香華  
1967年 なつかしき笛や太鼓  
1976年 スリランカの愛と別れ  
1979年 衝動殺人・息子よ  
1980年 父よ母よ!  
1983年 この子を残して  
1986年 新・喜びも悲しみも幾歳月  
1988年  

木下恵介監督プロフィール

木下恵介  1912年、静岡県浜松市に生まれる。静岡県立浜松工業学校 (現浜松工業高等学校) を卒業。
 少年時代から熱心な映画ファンで、オリエンタル写真学校を経て1933年松竹蒲田撮影所に入る。島津保次郎監督の撮影助手となり、翌年には新たに作られた松竹大船撮影所に映り、島津監督の下助監督となる。
 1940年に徴兵され中国を転戦も翌年、戦傷のため帰国。
 1943年、「花咲く港」で監督として華々しくデビュー。同年デビューした黒澤明監督とともに、優れた新人監督に贈られる山中貞雄賞を受賞。黒澤監督とは終生のライバルとして日本映画界を支えていくこととなる。
 また、いわゆる「木下組」からは小林正樹、川頭義郎、松山善三、勅使河原宏、吉田喜重、山田太一等々、多数の映画人が巣立っている。
 1951年には日本最初の長編カラー映画「カルメン故郷に帰る」を発表。のちに名コンビとなる高峰秀子との初顔合わせとなる。
 1954年には「二十四の瞳」でキネマ旬報第一位、芸術祭賞、毎日映画コンクール日本映画賞・監督賞・脚本賞、ブルーリボン作品賞、アメリカでのゴールデングローブ賞外国映画賞など、国内外で数多 くの賞を独占した。この年、「女の園」がキネマ旬報第二位となり、ひとりで一位と二位を占めることとなった。
 1964年の「香華」を最後に31年間の松竹生活にピリオドを打ち、退社。テレビ業界に進出し、「木下恵介劇場」「木下恵介・人間の歌」など、多くのテレビドラマを手がける。
 1977年、紫綬褒章、1984年、勲四等旭小受章。1991年、文化功労者となる。
 1998年12月逝去。享年86歳。生涯で49本の監督作品を残した。
 その天才的な演出や映画技法、そして木下作品の全てにあふれる家族愛や人間愛の豊かさが高く評価されている。

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