木下惠介略歴

平和、団欒、軍隊、戦争、絶望、未来。日本の昭和の人々の喜怒哀楽を自身の体験と重ね、その情感を映画に焼き付けた木下監督86年の映画人生です。
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1912   大正元年       12月5日、浜松市伝馬町の食料品店「尾張屋」に生まれる。
本名正吉。父周吉、母たま。
1919   大正8年   7歳   浜松尋常高等小学校(現元城小学校)に入学。小学3年のころから、さかんに映画を見る。
1925   大正14年   13歳   浜松工業学校(現浜松工業高等学校)に入学。紡織科を選んだが性に合わず、映画の道へ進む決心をした。
1930   昭和5年   18歳   東京日比谷の写真館、工藤写真研究所で修業後、オリエンタル写真学校で学ぶ。
1933   昭和8年   21歳   松竹蒲田撮影所現像部に入る。島津保次郎監督の撮影助手となる。
1936   昭和11年   24歳   松竹大船撮影所開所。島津保次郎監督に引き抜かれ助監督部に移る。
1940   昭和15年   28歳   召集令状を受け、名古屋の中部第13部隊に入隊。中国各地を転戦。
1941   昭和16年   29歳   けがのため野戦病院に入院。後に内地送還、召集解除となる。
1943   昭和18年   31歳   監督昇進。第1回監督作品「花咲く港」公開。優れた新進監督に贈られる山中貞雄賞を受賞。
1944   昭和19年   32歳   「陸軍」公開。戦時中のため、ラストシーンでの息子を追う母親の姿が、陸軍から軍国の母として女々しいと批判されたため、辞表を出し浜松に帰るが、所長に慰留される。
1946   昭和21年   34歳   戦後第1作「大曾根家の朝」公開。
1951   昭和26年   39歳   「カルメン故郷に帰る」が日本最初のカラー劇映画第1作として公開。 NHK映画ベストテン第1位、日本映画文化賞など受賞。 パリを中心に、ヨーロッパの国々で歴史や文化を8か月にわたって遊学。
1954   昭和29年   42歳   「二十四の瞳」公開。国内外の各映画賞を獲得し、ブルーリボン賞、ゴールデングローブ賞など、その数は40余にのぼる。
1955   昭和30年   43歳   「野菊の如き君なりき」公開。回想シーンを白い楕円形のマスクで囲う、実験的手法を使用し効果を生んだ。
1957   昭和32年   45歳   「喜びも悲しみも幾歳月」公開。芸術祭賞を受賞。
主題歌(木下忠司作曲)が大ヒットする。
1958   昭和33年   46歳   「楢山節考」公開。全編セットで歌舞伎的手法を用い、様式美に徹した異色作。キネマ旬報ベストテン第1位。映画コンクール日本映画賞、監督賞、音楽賞など受賞。
1964   昭和39年   52歳   「香華」を最後に31年間の松竹生活にピリオドをうち、退社。
テレビ界へ積極的に進出。「木下惠介劇場」「木下惠介・人間の歌」 など、数多くのテレビドラマを手がける。
1977   昭和52年   65歳   紫綬褒章を受章。
1979   昭和54年   67歳   松竹映画に復帰。社会問題に関心をもち、「衝動殺人 息子よ」などの話題作を生む。
1984   昭和59年   72歳   秋の叙勲で、勲四等旭日小綬章を受章。
1988   昭和63年   76歳   第49作目「父」公開。これが最後の映画作品となる。
1991   平成3年   79歳   国の文化功労者に選ばれる。
1998   平成10年   86歳   12月30日 逝去。(享年86歳)
1999   平成11年       長年の功績により「エランドール特別賞」を贈られる。
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