
| 1912 | 大正元年 | 12月5日、浜松市伝馬町の食料品店「尾張屋」に生まれる。 本名正吉。父周吉、母たま。 |
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| 1919 | 大正8年 | 7歳 | 浜松尋常高等小学校(現元城小学校)に入学。小学3年のころから、さかんに映画を見る。 | |||
| 1925 | 大正14年 | 13歳 | 浜松工業学校(現浜松工業高等学校)に入学。紡織科を選んだが性に合わず、映画の道へ進む決心をした。 | |||
| 1930 | 昭和5年 | 18歳 | 東京日比谷の写真館、工藤写真研究所で修業後、オリエンタル写真学校で学ぶ。 | |||
| 1933 | 昭和8年 | 21歳 | 松竹蒲田撮影所現像部に入る。島津保次郎監督の撮影助手となる。 | |||
| 1936 | 昭和11年 | 24歳 | 松竹大船撮影所開所。島津保次郎監督に引き抜かれ助監督部に移る。 | |||
| 1940 | 昭和15年 | 28歳 | 召集令状を受け、名古屋の中部第13部隊に入隊。中国各地を転戦。 | |||
| 1941 | 昭和16年 | 29歳 | けがのため野戦病院に入院。後に内地送還、召集解除となる。 | |||
| 1943 | 昭和18年 | 31歳 | 監督昇進。第1回監督作品「花咲く港」公開。優れた新進監督に贈られる山中貞雄賞を受賞。 | |||
| 1944 | 昭和19年 | 32歳 | 「陸軍」公開。戦時中のため、ラストシーンでの息子を追う母親の姿が、陸軍から軍国の母として女々しいと批判されたため、辞表を出し浜松に帰るが、所長に慰留される。 | |||
| 1946 | 昭和21年 | 34歳 | 戦後第1作「大曾根家の朝」公開。 |
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| 1951 | 昭和26年 | 39歳 | 「カルメン故郷に帰る」が日本最初のカラー劇映画第1作として公開。 NHK映画ベストテン第1位、日本映画文化賞など受賞。 パリを中心に、ヨーロッパの国々で歴史や文化を8か月にわたって遊学。 | |||
| 1954 | 昭和29年 | 42歳 | 「二十四の瞳」公開。国内外の各映画賞を獲得し、ブルーリボン賞、ゴールデングローブ賞など、その数は40余にのぼる。 | |||
| 1955 | 昭和30年 | 43歳 | 「野菊の如き君なりき」公開。回想シーンを白い楕円形のマスクで囲う、実験的手法を使用し効果を生んだ。 | |||
| 1957 | 昭和32年 | 45歳 | 「喜びも悲しみも幾歳月」公開。芸術祭賞を受賞。 主題歌(木下忠司作曲)が大ヒットする。 |
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| 1958 | 昭和33年 | 46歳 | 「楢山節考」公開。全編セットで歌舞伎的手法を用い、様式美に徹した異色作。キネマ旬報ベストテン第1位。映画コンクール日本映画賞、監督賞、音楽賞など受賞。 | |||
| 1964 | 昭和39年 | 52歳 | 「香華」を最後に31年間の松竹生活にピリオドをうち、退社。 テレビ界へ積極的に進出。「木下惠介劇場」「木下惠介・人間の歌」 など、数多くのテレビドラマを手がける。 |
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| 1977 | 昭和52年 | 65歳 | 紫綬褒章を受章。 | |||
| 1979 | 昭和54年 | 67歳 | 松竹映画に復帰。社会問題に関心をもち、「衝動殺人 息子よ」などの話題作を生む。 | |||
| 1984 | 昭和59年 | 72歳 | 秋の叙勲で、勲四等旭日小綬章を受章。 | |||
| 1988 | 昭和63年 | 76歳 | 第49作目「父」公開。これが最後の映画作品となる。 | |||
| 1991 | 平成3年 | 79歳 | 国の文化功労者に選ばれる。 | |||
| 1998 | 平成10年 | 86歳 | 12月30日 逝去。(享年86歳) | |||
| 1999 | 平成11年 | 長年の功績により「エランドール特別賞」を贈られる。 |






