すごい作家が浜松に存在(い)た。
藤枝静男作品には時代を超えた重要なメッセージがある。
私たちは、この時代だからこそ、藤枝作品に注目しなければならない。
極限まで「私」はなにものにも姿が変えられる変幻自在の「神」のようなものである。

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| 第10集 感想 | |
| 今度集まった作品のなかでは「やせた太陽」がずぬけていた。沢山の人の書いたものを、できるだけ多く発表したいというのが、この催しのひとつの目標なので、この作者のような人のものは相当からく読むのであるが、それでも他の作品に較べて断然優れている以上、採らざるを得なかった。 この人だけが、とにかく自覚をもって小説を書いている。欠点や不満はあっても、この点で他の全部を引き離している。他の作品には作者のモティーフといったものがほとんどない。つまり「これを書いて、自分の心の底にある何かを読む人に訴えたい」という強い動機が欠けている。珍らしい話、自分の生活、何でもいいがとにかくそれを書くことによって、相手に同感してもらいたい或は感動してもらいたいという欲望が稀薄なように思われる。これはただ表現が未熟であるというようなことのためではない。それを書く動機がハッキリと作者に自覚されていないので、文章がだらだらになり、中心がなくなり、読者にぼんやりした印象しか与え得ないという結果になっているのである。 「祖母と兵隊と牛」という作品などは、この点を自覚して書けば随分いい短篇にまとまったはずのものである。「内職」も全く同様である。これなどは書きようによっては「やせた太陽」などより数等内容のある、生活勘定のこもったものになっただろうと惜しまれる。 |
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| 第11集 小説選評 読後に | |
| 吉田知子氏の「冬」は群を抜いて優れた作品である。才能という点から云ったら現代の新しい女流作家たちと比較しても少しも遜色がない。ことによると彼女等より上等かも知れない。主人公の索漠とした生活と心境、自分と外界とが無関係だという自覚、自分自身さえも不連続な存在だという意識、作者のそういう感じ方に賛成するか否かは別として、とくかく作者は主張すべきモティーフを持ち、それをはっきりと表現している。文体もちゃんとした自覚と意味を持って選ばれていて、従ってどの場所でも生きている。 同じ作者の「豊原」はこれと較べると少し劣る。母親の偏執者的な自己中心的気質はよく描かれているし、それが少年の眼から見られているものとして、少年自体を含めて自然に描かれているが、この程度のことはこの作者にとってはたいして困難なことでもなかったであろう。とにかく作者自身にとって「冬」の方がはるかに切実な内容を持ったものだということが一見して明らかであり、従って「豊原」の方がそれだけ劣るのである。 伊藤昭一氏の「ある証言」は非常に素直な、抵抗のない文体で書かれているが、それでいて中味に或る深み、しみじみとした味いがこもった好短篇である。すらすらと何気なく書き流されているように見えていながら、描写は適確で、場面の選択に注意が行き届いているのが快い。「私」が何年かぶりかで主人公と再会するところ「私はある会社へ就職試験を受けに行きました。大きなビルの四階に私は階段をのぼって行きました。すると上の方でバターンとドアの閉まる音がして続いて靴音を響かせて下りてくる男をふと見上げるとそれが斉藤でした」こういういかにも自然で平凡なところがそれである。ただ、しかしこの嫌味のないという美点が、一方でこの作品全体の弱点ともなっている。つまり描写が余りに謙遜すぎて、主人公の姿がハッキリ生き生きと読者に迫って来ないのである。小説と呼ぶには淡すぎるのである。それから最後の「手紙」の部分は少しも効いていない。ここをもっとくふうしたらキリッとした短篇になったかも知れない。同じ作者の「夢のように」は劣る。全く同じ弱点が拡大した形であらわれている。 坂上康男氏の「寒い日」は初歩的で自然発生的なものであるが何となく好意を感じた。石鹸を製造する場面は魅力がある。ああいう体験を持つ重味から発展させて書いていかないと駄目である。 大軒妙子氏の「だいだいとあきおくん」、汚れのない詩情のようなものを感じて快った。実際に幼児に読んで聞かせたくなるようなところがある。私はこういうのが好きである。 吉田氏の「豊原」と伊藤氏の「夢のように」は、なるべく多くの作者のものを掲載したいという編集方針に従って印刷を割愛した。このことを作者に諒承してもらいたい。 |
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