すごい作家が浜松に存在(い)た。
藤枝静男作品には時代を超えた重要なメッセージがある。
私たちは、この時代だからこそ、藤枝作品に注目しなければならない。
極限まで「私」はなにものにも姿が変えられる変幻自在の「神」のようなものである。

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| 明治四一年(1908年) | ● |
一月一日(実際は明治四〇年一二月二〇日午前八時)静岡県志太郡藤枝町市部六四番地(現藤枝市)に生まれる。本名勝見次郎。父は勝見鎭吉、母はぬい。家業は薬局。 |
| 大正九年(1920年)一二歳 | ● | 三月、藤枝町立尋常高等小学校を卒業。一人で上京し受験。四月、東京郊外池袋の成蹊学園内の五年制乙種実務学校に入学。 |
| 大正一二年(1923年)一五歳 | ● | 九月、関東大震災。上級学校受験資格を得るために中学部に籍を移す。この頃より学校に隠れて小説類に読みふけり映画館に通う。要注意人物となり退学を勧告されるが、学園長中村春二のとりなしで免れる。 |
| 大正一五年・ 昭和元年(1926年)一八歳 |
● | 四月、第八高等学校理科乙類に一番の成績で入学。同級に北川静男。南寮で平野謙と同室になる。 |
| 昭和二年(1927年)一九歳 | ● | 一月、八高南寮を勝手に出て素人下宿に移る。平野謙の紹介で本多秋五と知り合う。 |
| 昭和三年(1928年)二〇歳 | ● | 二年に進級。八月二日、奈良市幸町に初めて志賀直哉を訪ねる。丁度来訪中の小林秀雄を識る。 |
| 昭和八年(1933年)二五歳 | ● | 六月、学内モップル活動に一回応じて金を出したのが発覚し検挙される。千葉警察署に五〇余日拘留され、起訴猶予。 |
| 昭和一一年(1936年)二八歳 | ● | 七月、四ヶ月遅れて千葉医科大学卒業(卒業証書の日付は七月一一日となっている)。思想的前歴のため正式な入局は許されず、教授の好意で医局に出入りして眼科を学ぶ。 |
| 昭和一三年(1938年)三〇歳 | ● | 四月、静岡県浜名郡積志村西ヶ埼(現浜松市)の眼科開業医、菅原龍次郎の三女智世子(大正五年一一月一一日生まれ)と結婚 |
| 昭和一四年(1939年)三一歳 | ● | 九月、長女章子生まれる。 |
| 昭和一六年(1941年)三三歳 | ● | 一一月、次女本子生まれる。 |
| 昭和二一年(1946年)三八歳 | ● | 四月二〇日、積志村の菅原眼科医院を平野謙と本多秋五が訪ねてくる。二泊。この時、小説を書くことを勧められる。<近代文学>掲載の佐々木基一「停まれる時の合間に」に同感し勇気を得る。 |
| 昭和二二年(1947年)三九歳 | ● | 五月、本多秋五に短篇四作を送る。その内の一篇「路」が<近代文学>九月号に掲載される。 |
| 昭和二四年(1949年)四一歳 | ● | <近代文学>三月号に「イペリット眼」、同一二月号に「家族歴」を発表。「イペリット眼」が第二一回(昭和二四年度上半期)芥川賞候補となる。 |
| 昭和二五年(1950年)四二歳 | ● | 四月、浜名郡積志村の妻の実家を出て、浜松市東田町二〇六番地に眼科医院を開業する。 |
| 昭和二七年(1952年)四四歳 | ● | 「空気頭(初稿)を<近代文学>三月号に発表。 |
| 昭和三〇年(1955年)四七歳 | ● | 「痩我慢の説」を<近代文学>一一月号に発表。第三四回(昭和三〇年下半期)芥川賞候補作となる。このときの受賞作は石原慎太郎「太陽の季節」。 |
| 昭和三二年(1957年)四九歳 | ● |
「犬の血」が<文藝春秋>三月号に転載される。<浜松百撰>が一二月に創刊され寄稿。 「静男巷談」として昭和三九年一二月号まで八五回の連載となる。 |
| 昭和三五年(1960年)五二歳 | ● | 匿名で年間五万円を近代文学社に提供することを申し出る。近代文学社はそれを基金として「近代文学賞」を設定し副賞とした。「近代文学賞」は、<近代文学>の終刊によって昭和三九年の第五回をもって終了。第一回受賞者は吉本隆明。 |
| 昭和三六年(1961年)五三歳 | ● | 「凶徒津田三蔵」を<群像>二月号に発表。 |
| 昭和三七年(1962年)五四歳 | ● | 「春の水」を<群像>四月号に発表。「ヤゴの分際」を<群像>一二月号に発表。 |
| 昭和四一年(1966年)五八歳 | ● | 「硝酸銀」を<群像>二月号に発表。七月、旧近代文学同人を浜名湖に招待する。「浜名湖会」のはじまり。「一家団欒」を<群像>九月号に発表。 |
| 昭和四二年(1967年)五九歳 | ● | 「空気頭」を<群像>八月号に発表。一二月、静岡県文化奨励賞を受賞。 |
| 昭和四三年(1968年)六〇歳 | ● | 創作集『空気頭』により昭和四二年度芸術選奨文部大臣賞を受賞。第一随筆集『落第免状』を講談社より刊行。 |
| 昭和四四年(1969年)六一歳 | ● | 「厭離穢士」を<新潮>二月号に、「或る年の冬」を<群像>四月号に発表。 |
| 昭和四五年(1970年)六二歳 | ● | 創作集『欣求浄土』を講談社より刊行。診察の一切を長女にゆずり隠居。 |
| 昭和四六年(1971年)六三歳 | ● | 昭和四五年一二月三一日付で保健所に眼科医廃業届を出す。 |
| 昭和四七年(1972年)六四歳 | ● | 第二随筆集『寓目愚談』を講談社より発行。 |
| 昭和四九年(1974年)六六歳 | ● | 「田神有楽」を<群像>一月号に発表。創作集『愛国者たち』により第二回平林たい子賞を受賞。「田神有楽前書き」を<群像>七月号に発表。 |
| 昭和五〇年(1975年)六七歳 | ● | 五月、「田神有楽」が『文学一九七五』(講談社刊)に収録される。 |
| 昭和五一年(1976年)六八歳 | ● | 「田神有楽終節」を<群像>二月号に発表。『田紳有楽』を講談社から刊行。九月、『田紳有楽』により第一二回谷崎潤一郎賞を受賞。 |
| 昭和五二年(1977年)六九歳 | ● | 二月二六日、妻智世子乳癌に癌性腹膜炎を併発し死去、享年六〇歳。「雛祭り」を<海>八月号に発表。「悲しいだけ」を<群像>一〇月号に発表。 |
| 昭和五三年(1978年)七〇歳 | ● | 四月三日、生涯の友平野謙死去、享年七一歳。五月、中日文化賞を受賞。七月、浜松市市勢功労賞を受賞。第四随筆集『茫界偏視』(装幀・辻村益朗)を講談社から刊行。 |
| 昭和五四年(1979年)七一歳 | ● | 六月、創作集『悲しいだけ』で第三二回野間文芸賞を受賞。 |
| 昭和五六年(1981年)七三歳 | ● |
六月、『路』を成瀬書房より刊行(限定二〇〇部)。一〇月、第五随筆集『石心桃夭』(装幀・辻村益朗)を講談社より刊行。 |
| 昭和六〇年(1985年)七七歳 | ● | 「老いたる私小説家の私倍増小説」を<文學界>五月号に発表。 |
| 昭和六四年・ 平成元年(1989年)八一歳 |
● | 一月から五月にかけて浜松文芸館で「藤枝静男展—文学と人生」を開催。 |
| 平成五年(1993年)八五歳 | ● |
四月一六日午前五時三五分、肺炎のため神奈川県横須賀の入院先で死去、享年八五歳。 <浜松百撰>六月号で「追悼・藤枝静男」。 |
| 平成九年(1997年) |
● | 二月、埴谷雄高死去、享年八七歳。 |
| 平成一一年(1999年) | ● | 一月、宮内淳子『藤枝静男論ータンタロスの小説』(エディトリアルデザイン研究所刊)が刊行される。 |
| 平成一四年(2002年) | ● | 藤枝静男墓前祭の名称が、小川国夫の発案により「雄老忌」と決まる。 |
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浜松文芸館の庭には、「田紳有楽」に登場する蹲踞(つくばい)や、藤枝静男が志賀直哉邸の庭のシクザクロの実から育てたシクザクロの樹が保存されています。
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