すごい作家が浜松に存在(い)た。

すごい作家が浜松に存在(い)た。|藤枝静男

藤枝静男作品には時代を超えた重要なメッセージがある。
私たちは、この時代だからこそ、藤枝作品に注目しなければならない。
極限まで「私」はなにものにも姿が変えられる変幻自在の「神」のようなものである。

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八高時代
人生について
 むかし、まだ若かったころ、章は苦しさのあまり、自分のなかに淫蕩の血が流れているという確信にとらえられたことがあった。苦しいということ自体が、性慾の悪を証明しているように思われた。一族の女たちの行為のすべてがそれに結びついていた。
 そして不思議なことに、この長く続いた呪縛は、他方で絶えず彼の内部に反対のもの、女に対する並はずれた欲求を生みだしつづけていた。まるでそれが彼の生の原動力のようでさえもあった。
 ーこの謂わば負の力みたいなもので俺は生きてきた、と章は思った。そしてその結果として、一生の終わりに近い俺にのこされたものは、それと正反対のものへの陰気な執着だけだったのか。
(「硝酸銀」より)

藤枝静男像 画:平野謙
八高時代(1929年)

大学時代(1935年)
自画像(ノートより)
友人(静男の手によって整理されたアルバム)

藤枝静男像 画:平野謙 自画像(ノートより)
自画像(ノートより)
整理されたアルバム
藤枝静男像 画:平野謙 整理されたアルバム

・八高で生涯の友人である本多秋五、平野謙と出会う時期
・1970年(昭和44年)藤枝静男は19年間分の日記を焼却している。当事奈良市にあった志賀直哉邸を訪問した顛末などが書かれた1930年の記入のあるノートは貴重な日記の一つを展示した。


志賀直哉(しがなおや)と藤枝静男

二列目左から 藤枝静男 里見?(とん) 志賀直哉 小津安二郎
手前左から 妻智世子 次女本子 母 (浜松市で撮影)

 1883年(明治16年)2月20日宮城県石巻市に生まれる 〜1971年(昭和46年)10月21日死去。
 白樺派を代表する小説家。『暗夜行路』、『和解』、『小僧の神様』、『城の崎にて』など多くの作品が残されている。
 志賀直哉を師とする作家は、藤枝静男をはじめ瀧井孝作、尾崎一雄、小林秀雄、阿川弘之、小林多喜二らがいる。
 藤枝静男は第八高等学校理科乙類に一番の成績で入学(1926年・昭和元年)した後、二年に進級した(1928年・昭和3年)8月2日、奈良市幸町に初めて志賀直哉を訪ねる。その時同じように志賀宅を訪ねていた小林秀雄を知る。後に瀧井孝作を知るのも志賀宅であった。同年の11月2日〜5日、平野謙、本多秋吾を誘って奈良にキャンプ旅行をし、再び志賀直哉を訪ねる。この時はまだ藤枝静男というペンネームは存在しなかった。当然、勝見次郎として志賀宅を訪ねたのである。藤枝静男のペンネームが誕生するのは、1947年(昭22年)近代文学9月号に「路」(みち)が発表される時(本多秋吾の考えた)まだ待たねばならない。


作家活動(近代文学)
私小説について
 小説の形式などどうでもいいではないか。あるアメリカ人が「志賀直哉の小説は、小説ではなくて随筆だ」と言ったそうであるが、自分の国の規格を相手かまわず押しつけるのは、お国がらとは言え、ずいぶん傲慢な話で、私は「それが創作であるか随筆であるかの別は、それを書くときの精神の緊張とそれを書く態度できまる」という意味の志賀氏の言葉の方がはるかに芸術家らしくて調子が高いと思っている。またその方がヨーロッパよりはるかに古い東洋芸術の伝統に即していると思う。社会のしくみが変われば芸術という精神の伝統も消滅しないといけないなどという法はない。
このごろ源氏物語が「近代的」な人々の気に入っているらしいが、それは彼等の尊重する小説の規格に合うからであろう。それなら私がすぐそのとなりにいる「枕草子」を短章の自由構成形式による私小説の傑作だと言ったら何と言うだろう。私は何もヤケクソで言っているのではない。
(「私小説家の不平」より)

生と死

 最近比較的簡単で危険のない開腹手術をするにつき全身麻酔でやってもらった。これは医者の癖に器機のガチャガチャいう音を聞くのが嫌だということもあるが、半分は好奇心で、死というものが実際にはどういう状態なのか経験しておきたかったことと、無意識になったとき自分がどんな恥ずべき戯言を言うかを識っておきたかったためでもあった。結果は、これまで何とはなしに死と生とを或る形で隣りあわせに並べて両方を実在的に考えていたのは間違いで、実在するのは生だけで、死は単なる非実在--真空、つまりあらゆる点で何もなしということだと実感できたのは有難かった。戯言の方は残念ながら、というより幸運なことには手術中も手術後もウンともスンとも言わなかったので意識下に蟠居する欲望を暴露する醜状をまねがれた。
 こういう行為が軽薄であり、またそれと裏腹に傲慢でもあることを今さとっている。つまりエラそうなことを言うなということである。そういう態度で小説を書いてきたのは恥ずかしい。しかし今更どうすることもできないような情けない気もしている。

(「寓目愚談」あとがき より)


近代文学
・近代文学 創刊1945年(昭和20年)〜最終刊1964年(昭和39年)
・平野謙・本多秋五・埴谷雄高・荒正人・佐々木基一・小田切秀雄・山室静が同人となり雑誌『近代文学』を創刊し、新しい文学をめざし、第二次大戦後の文学界に多大な影響を与えた。
・ 藤枝静男は処女作「路」「空気頭」他、埴谷雄高は「死霊」他の発表がある。

文体について
 私は文体という気取った言葉が嫌いである。自分の書くのは文章である。つまりそのままハッキリと情景が浮かび心理が伝わることを第一の目的として字を並べて行くのである。これが一歩であり、最終歩である。
(「他になし」全文 ※柏書房版「現代文章宝鑑」宣伝パンフレット用に書かれた。)


原稿料についてのアンケート
 僕の原稿料は次の通りです。
 新聞文化欄は全部一枚三、〇〇〇円。
 しかし読売文化部の婦人欄のときは二、四〇〇円しかくれなかった。
 文芸、文学界、新潮、季刊芸術は二、〇〇〇円。群像は一、八〇〇円(いま電話したらあげるらしいことを云った)
 世界文化社の外国旅行の本の中の随筆は一枚四、〇〇〇円。
 骨折って書くわりには安いと思います。しかし他の人の稿料を知らないので、これが相場だろうとも思っています。誰のも二倍にするといいと思います。
(昭和四六年(一九七一年)文芸協会ニュース)

友人
藤枝静男展「私」と「宇宙」での主な交流人物紹介

志賀直哉(1883〜1971)
小説家 宮城県石巻市生まれ。白樺派を代表する「小説の神様」と称された作家家。代表作は『暗夜行路』、『和解』、『小僧の神様』、『城の崎にて』。藤枝静男が生涯師と仰ぐ日本の文豪。

平野謙(1907〜1978)本名:平野朗(あきら)。
文芸評論家 近代文学同人 岐阜中学校から名古屋の旧制第八高等学校に進学し、本多秋五や藤枝静男と知り合う。生涯、藤枝静男と交友を持つ。主著に『島崎藤村』と『藝術と実生活』がある。

平野謙のこと
 とにかく八高に入学してこうりと夜具を持って南寮五室に入ってみると、本立てをはさんだ向かい合わせの席に岐阜中学から来た平野謙がいた。平野が背のすらりとした稀代の美少年で、着く早々煙草をふかしたので「こりゃたいして不良だぞ」と思ったということは前にも書いたことがあるから略するが、一室六人、うち一人の室長二年生を含めた三人までが四年修了と同時に入ってきた子供みたいな高校生であったから、平野と私とは断然たる年長者として他を押さえたわけで、そのうえ私たち二人は偶然にも、小説愛好者という点でも共通して大人びていた。私なんか、彼の本立てに並んだ文学書を見て喜びもしたが、また油断ならぬとも思ったのであった。
(「青春愚談」より)

本多秋五(1908〜2001)
文芸評論家 近代文学同人 現豊橋市出身。旧制第八高等学校、東京帝国大学を卒業する。八高時代に平野謙とともに藤枝静男と知り合う。平野謙とともにペンネーム藤枝静男の名付け親でもある。主著に『物語戦後文学史』『古い記憶の井戸』『志賀直哉』がある。

埴谷雄高(1909〜1997)本名:般若豊(はんにゃ ゆたか)
作家 評論家 近代文学同人 台湾の新竹に生まれる。ドストエフスキーとカントに絶大な影響を受け、多くのドストエフスキー論を書いている。代表作は、存在の秘密や大宇宙について語った思弁的な大長篇小説『死靈(しれい)』。世界文学史上未曾有の形而上小説であるが未完に終わった。生涯藤枝静男とは友人であった。

バーナード・リーチ(1887〜1979)
イギリス人の陶芸家、画家、デザイナー。日本を度々訪問し、白樺派や民芸運動にも関わりが深い。日本民藝館設立にあたり柳宗悦に協力した。

内田六郎(1892〜1974)
浜松市医師会議長、社会教育委員長を務める。第2次大戦後の浜松市に医学を通じて市民の健康に貢献するかたわら、文化芸術の振興にも貢献する。

曽宮一念(1893〜1994)本名:喜七
東京生まれ、東京美術学校卒。大下藤次郎、黒田清輝らに師事。1946年国画会会員となるが1965年視力障害のため国画会を退く。1971年両眼失明のため画家を廃業。「裾野の雲」「平野夕映え」などの風景画で知られる。『海辺の熔岩』で日本エッセイスト・クラブ賞受賞。藤枝静男は一念とは交友を深める一方その絵を収集する。

埴谷雄高との交流
近代文学と埴谷雄高
 埴谷氏の作品が思想小説観念小説として理解され、若い人々の精神的よりどころとして尊重されていることに異論はない。しかし私はその人たちが余りせっかちにならずに、あの文章それ自体にただよっている一種異様な美しさ、埴谷氏が気質的に、官能的と云っていいくらいの鋭い感覚を持った本来の芸術家であることを示すあの描写力をも、意識して味わってもらいたいと思っている。氏の短編にはしばしば作者の念力によって作りだされた括弧つきの「夢」の世界が出てくるが、この夢はいったん組み立てが終わってしまうと、その中にはまりこんでいる作者によって、まるで新しく遭遇した未知の世界でもあるかのように眺められ探検されて、生ま生ましい視力と皮膚感覚をもって描写される。この夏浜松で雑談したとき「僕はちゃんと見たことを書いているんだがなあ」と嘆いていたが、それは尤もな云いぶんで何も読者に対する贅沢な要求ではないと思った。(中略)
 埒もないことばかり書いたが、『近代文学』存続中は年一回の「近代文学賞」授賞のときに会って恒例の鰻屋で夕食を食うきり、この数年は夏の弁天島で二泊三日の清遊をともにするきりで、他にはたまに上京の折り何かのパーティで雑談するくらいのものだから格別の話題は浮かんでこないのである。しかしそういう場合いつも埴谷氏について感じることは、脳細胞の多い人だなということである。そして過去の記憶がハッキリとして細く、しかも生き生きしている、つまり芸術家だということである。
(「埴谷氏のこと」より)

妻智世子さん 妻智世子さん作の花器 妻智世子さん作の絵皿
「埴谷説教高潮 一対一」 「埴谷の説教いよいよ激化」 「尚、埴谷説教激化進行ス 本多ナダメニ来ル」



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