すごい作家が浜松に存在(い)た。
藤枝静男作品には時代を超えた重要なメッセージがある。
私たちは、この時代だからこそ、藤枝作品に注目しなければならない。
極限まで「私」はなにものにも姿が変えられる変幻自在の「神」のようなものである。

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ウラジミール市に二泊し、そこから車で一時間ばかりの郊外にある古都スースダリの村落に集中している十一−十二世紀のギリシャ正教寺院を観てまわったのは、二度目のモスクワ滞在中のことであった。 <中略> ウラジミールの街は、電光に乏しく、家並みは低く、人影はまばらで、道路だけが不釣 合に広い、淋しい街であった。運転手は私たちの告げたホテルを知らなかった。 <中略> ホテルに戻って風呂に入り、温まった身体でありついた夕食はうまかった。私たちは葡萄酒をとり、それから隣のテーブルの若い青年の食っている肉の煮込みのような料理を注文した。名前は何と呼ぶのか、脂身のついた豚肉の塊と馬鈴薯と玉葱などがとろとろに溶けてからみあっている、大体シチューのようなものであった。高さ一〇センチばかりの円筒形の壷に入っているので、スープ匙で掻き出して食うのであった。 <中略> すぐに私は欲しいと思った。高さ約一〇センチ、口径約八センチばかりの薄手の楽焼きのこの小壷は、口縁のところで僅かに外側に反り、首から胴へとゆるやかに膨れて行って、腰の部分で最も豊かな曲線を描いてから、再び底に向かって急にすぼまっていた。全身に半透明の明るい黄土色の釉がかけられ、胴まわりを、同じ黄土色の濃いめの釉が、一条の幅広の帯とそれをはさむ二条の細線からなる直線文様となってとり巻いていた。首と内面とに浅い轆轤目が現れ、平底は真黒くくすぶり、焔の余波が裾まわりを薄墨色に嘗めていた。繰り返される加熱で、壷に表面は細かい貫入れに覆われて光の反射を弱め柔げているように思われた。 是非手に入れねばならぬ、と私は思った。しかし一方で私の気持ちがそのまま食堂の給仕に通ずる可能性のほとんどないことも明らかであった。実際、食事の片付けに来た女は、「これを譲って欲しいのだが」という私の懇願を、間髪をいれず手を振って拒絶した。その表情は官僚的ですらあった。だが私がそれで諦めたわけでは勿論ない。ひとの悪いやり方かもしれないけれど、私は彼等を騙す以外に方法はないと考えたのであった。 私は通訳のアラ嬢に「もう一度、今度は支配人にかけあって下さい」と云った。そして何となく渋りがちな表情で、それでもフロントに近づいて行く彼女に「私は日本から来た旅行者です。いま食堂でこれこれの料理を食べたところ非常にうまかった。だから日本へ帰っても是非こしらえて味わいたいと願っています。ですからあの壷を私に譲ってもらいたのです。そう云ってみて下さい」と押しつけるように云った。そして私は彼女とならんで旅客係りの女のテーブルの前に立った。 <中略> ことは私の予想したとうりになった。支配人と思われる小肥りで小柄な中年の女が、やがてその黄土色の子壷を二個、胸にかかえて現れ、笑いながら真直に私に向かって進んできた。「スパシーヴォ」、頭を下げて受けとりながら私はひとつ覚えの感謝の言葉を心から叫んだ。そして彼女の差し出した領収証と引き替えに一ルーブル三〇カペイクを支払った。 頭の奥では、ある程度気がとがめた。しかし喜びはそれ以上に大きかった。私は部屋に帰るとすぐに鞄を開げ、駱駝のシャツとパンツとで、この砕け易い薄手の陶器をくるんで底深くしまいこんだのであった。 (「ウラジミールの壷」より) |
『ウラジミールの壷』が誕生するまで

1970年(昭和45年)9月25日〜10月29日
藤枝静男はソ連作家同盟の招待で、城山三郎、江藤淳の3人でソビエト・ヨーロッパ旅行をする。
「両氏の優しさに対して生涯頭のあがらぬことを告白する。」 (「ヨーロッパ寓目)
この年作家は19年続けてきた日記を昭和44年分を除き焼却する。
この旅行後、診療の一切を長女夫妻にゆずり隠居を宣言。
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ウラジミール市に滞在する。
「ウラジミールの街は、電光に乏しく、家並みは低く、まばらで、道路だけが不釣合に広い、淋しい街であった。」 (「ウラジミールの壷」)
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夕食の時間である。
「大体シチューのようなものであった。高さ一〇センチばかりの円筒形の壷に入っているので、スープ匙で掻き出して食うのである。」 (「〃」)
ついに『ウラジミールの壷』との出会った。
「蓋が部厚い鯛焼きの皮みたいなものでできていたのを奇異な思いで注目したのであった。…………蓋の底のあたりが黒く焦げているとこからみると、それは容れ物を直接火にかけて煮たに相違なく………」 (「〃」)

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「是非手にいれねばならぬ、と私は思った。」 (「〃」)
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作家はこの壷を入手する交渉にはいる。
「食事の片付けに来た女は、「これを譲って欲しいのだが」という私の懇願を、間髪を入れず手を振って拒絶した。」 (「〃」)
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「私は彼等を騙す以外に方法はないと考えたのであった。」 (「〃」)
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「これこれの料理を食べたところ非常にうまかった。だから日本へ帰っても是非こしらえて味わいたいと願っています。ですからあの壷を譲ってもらいたい。」 (「〃」)
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「支配人と思われる小肥りで小柄な中年の女が、やがて黄土色の小壷を二個、胸にかかえて現れ、笑いながら真直に私に向かって進んできた。」 (「〃」)
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「「スパシーヴォ」、頭を下げて受けとりながら私はひとつ覚えの感謝の言葉を心から叫んだ。そして彼女の差し出した領収証と引き替えに一ルーブル三〇カペイクを支払った。」 (「〃」)

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「私は部屋に帰るとすぐに鞄を開げ、駱駝のシャツとパンツとで、この砕け易い薄手の陶器をくるんで底深くしまいこんだのであった。」 (「〃」)
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藤枝静男が持ち帰ったこの子壷は「ウラジミールの壷」と命名され、箱書きがされた。
この顛末は、作家藤枝静男の人と作品を研究するうえで興味深い出来事である。
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